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Web Master⇒かずちん
パピヨン5匹と共に暮らす生活を紹介
愛用Camera―Nikon D200
Nikon D300s
Nikon P300
冬はスノーボードに勤しみ夏は南の島へ
詳しいことは『Kazutin's Profile』参照
mail⇒
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http://www.ringing-bell.com/
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2013/12/09
自慢話
私の祖母、ヨリエさんが12月6日23:04 静かに息をひきとりました。
100年という壮大な人生の幕がおりました。
いや、悲しい話ではありません、
私の自慢話です。
ちょっと長くは書いてしまいましたが、もしよかったら私の自慢話を聞いてください。
そりゃー亡くなってしまい、悲しくて仕方がありません。
でも、100歳という年齢。寝たきりの状態。
もう一世紀生きてきた中で、プライドを高くもっていた祖母にとって、この状態は本人にとってつらかったに違いがありません。
人に迷惑をかけることを本当に嫌った人です。
私たち家族も、「頑張ってほしい」という気持ちと「もう十分頑張ったからもう頑張らなくていいよ」という気持ちがぐちゃぐちゃと合わさっていて、いろんな葛藤があったこの3か月です。
9月の初めから嚥下障害が出始めました。
そして、そこに久々の狭心症の発作
その日から、祖母は食事がまともに取れなくなりました。
ウイダーインなどのゼリー栄養飲料とジュースとOS1
あと、レトルトのおかゆをさらにトロトロに
この3か月これだけです。
それも大した量は接種できていません。
点滴は血管がもろくなっているので無理。
ここから、家族での本当に意味での介護が始まった気がします。
おむつを替え
暇さえあれば水分を入れる
一生懸命声をかける
していることなんて、はっきりいってこれだけです。
でも、これが大切であって、家にいる『意味』だと思ってます。
往診医の先生がこの1年お世話をしてくださいました。
先生とも相談をし、施設にいれることは簡単ではあるけれど、入るだけ入って、忙しい介護スタッフがつきっきりで世話をしてくれるわけではない。
だったら、家族に声をかけてもらって、ずっと見てもらっているほうがおばーちゃんにとって幸せだと結論をだしました。
それには、家族だけではなく、いろんな人のお世話になったのも事実です。
ケアマネージャー、訪問看護師の方、先生
いろんなアドバイスや知恵を賜りました。
11月末、とうとう水さえ受け付けなくなり、ある意味私たちは覚悟はしていました。
あとは、どうすることが一番おばーちゃんが楽であるかです。
12月6日、母からの電話でまっすぐ帰ってきてほしいとの連絡
夕方から、瞳孔の動きがおかしくなり、瞬きがまったくなくなりました。
そして、ここからはやはり100歳という年齢なんでしょう。
変化が刻を追うごとにあります。
手の色も足の色も悪い。
もう酸素が体の先までいかないのです。
要するに、脳にもいってないでしょう。
なので、いろんな反応がなくなりました。
手をずっと握っていると、私の体温が移り、色もよくなります。
それから3時間くらい握っていたかなぁ (父にはあとのこともあるので寝てもらいました)
母と2人で見ていたら、手をぎゅぎゅって急に握りかえし、『あーあー、あーあー』と何かを言ったんです。
でも、私も母もそれがなんと言ったのか聞き取ることができませんでした。(涙)
そこからはもうスポンジで水を口に当ててもなんの反応もなくなり、ただただ口を開けて呼吸を繰り返すばかり。
でも、私この症状知っているんです。
なにかしゃべるように口を開けて呼吸するときは『最後』です。
あとは、1分間の呼吸の回数をひたすらカウントしてました。
そして、あ!っと思ったのが、喉の呼吸の動きを口の動きが合わなくなってきたので、急いで父を叩き起こし、そうですねー そこから1分の呼吸の回数が20⇒10⇒5⇒????? と静かに止まっていったんです。
ありがとうございました。
これが、私のおばーちゃんへの気持ちです。
祖母の最後は理想通りの最後だと思います。
最後まで、家で看ることができました。
家族全員で見送れました。
なんていうか、満足してます。
これって、すごいことだと思いませんか?
まったく苦しむことがなく、静かに穏やかにフェードアウトした祖母
穏やかでした。
私たちが望んだ最後であって、祖母自身も臨んだ最後だったと思います。
きっと、おじーちゃんが迎えに来てくれたんですね!
実は、これはスペシャルハッピーエンドの話だと思ってください。
私、ずーーーーーーっとばーちゃんはじーちゃんを恨んでいたんだと思っていたんです。
じいちゃんは、軍人でありましたが、そのあと土建会社をやっていたり、ねっからのお人よしで、人に騙されてお金がなくなったり、会社が倒産しても、全財産を従業員に渡しちゃったりと、ばーちゃんやうちの父たちは、えらい苦労をさせられたそうです。
それでも、ばーちゃんもひたすら働き、父達を大学までだしています。
昔のもろもろの話は難しいのですが、なんかいろいろ愚痴られた記憶はあります。
しょっちゅう、じーちゃんを怒っていたような思い出ばかり(笑)
でもね
9月で寝たきりになって、時々おかしなことをいう時があったのですが、そのあまりはっきりしない言葉のなかで、何度も『おじーさん、おじーさん』っていうんです。
えーーーー?と思い、おじーちゃんの写真を指差して一生懸命いうばーちゃんに『会いたいの?』と聞いたら『会いたい会いたい』って言うんですよ!
びっくりしました。
それが、そのあとも何回かあったんですねー
おばーちゃん、実はおじーちゃんのこと大好きだったんだなーって
おじーちゃんが迎えに来てくれるのをまっているんだなーって
あたし、すっかり勘違いしてました。
すごく暖かい気持ちになった私です。
そして、私は昔から尊敬する人物と聞かれると『祖母』と答えます。
じーちゃんは、まるこちゃんの友三じーさんのようなかわいいじーちゃんでしたが、ばーちゃんは私にとって人生の先生です。
私が幼稚園の頃に、新潟で1人で保健婦をしていた祖母が定年後埼玉にきて同居することになりました。
それまでの祖母は、鹿児島で生まれ、看護学校に通って看護師になり、じーちゃんと結婚後満州に行って、そこで助産婦の資格をとる。そして40歳で保健婦の資格をとり、公務員をして働いたと聞いてます。
教え子もできたりと、当時のばーちゃんに世話になった人たちは、今でも『田中婦長さん!』と連絡をくれるくらい、町の有名人だったそうです。(新潟県能生町)
そういえば、うちの玲と圭のへその緒を結んだのはばーちゃんでした!
そりゃー素早かったです。その時90歳!!!
同居をするようになって、私はほぼ祖母に育てられたといっても過言ではないでしょう。
ばーちゃんは積極的に私になんでもやらせてくれました。
たとえば、刃物も私は早くから持ってます。
カッターで鉛筆を削るのも幼稚園のころからお茶の子さいさいです。
字も早くから書いてました。
もともとなんでもやりたがりの性格でしたが、それを否定することなく、すぐに実行させてくれたのが祖母です。
一人っ子の私ですから、外で遊ぶ時は、友達と男の子遊び
家での遊びはもっぱらばーちゃんとだったんです。
野球もよく一緒にみにいったな
ばーちゃんはジャイアンツフアンだったから(笑)
ばーちゃんが看護師で、しかもかなりの優秀な看護師
おば2人も看護師
自然に、じーちゃんたちも私が看護師になってくれたら・・・と思っていたのも感じてました。
なので、自分の気持ちがついていかない状態で看護学校を受験した私がいます。
しかし、実は私、1つ受かった学校をおちたと嘘をついて、入学を蹴ったんです。
嘘はけして良くなかったと反省しています。
この嘘で、私は1年分の予備校のお金を親に負担させることになってしまいました。
予備校に通っていても、自分の将来に看護師がどうしても結びつかない私に、おばーちゃんがわかってくれていたんですね。
逆に、医療系の予備校に通っていく中で、今の臨床検査技師のほうにどんどん興味がわいていったんです。
もともと化学が好きだったからね
その進路を変えることへの葛藤に助けてくれたのはばーちゃんでしたね。
そして、その予備校のお金を実はおばーちゃんが出していたと聞き、私の就職したあと返しました。
知らないことになっていたので、母に返し、ばーちゃんにわたるようにしてもらったんですがね。
だって、私からなんて、絶対に受け取らないもん ばーちゃんは!
今、こうやって自分の満足のいく道に進んでいるのは、ばーちゃんのおかげなんです。 私がやりたいことを絶対に否定せず、良い方向へ導いてくれる人です。
厳しいところもありましたよ! あえていえば、かなり厳しいかも(笑)
でも、愛情があったんですよねー
厳しかったけど、怖かった記憶はまったくないですもん。
ばーちゃん自身もいつも前向きにいろいろなことに取り組んでました。
その1つがパッチワーク
野原チャックさんの系列のお弟子さんの1人となり
自分でも教え子をもちました。
今となっては遺品となってしまいますが、斎場に一部飾らせてもらいました。
ほーーーらすごいでしょ!
明日が告別式なので、お別れです。
最後までちゃんとお見送りしなくちゃね!
長いこと書いてすみません。
悲しいお話としてではなく、私の自慢のおばーちゃんの話です。
大声で、うちのおばーちゃんすごいでしょーーーーーーと叫びたい気分です。
100年という壮大な人生の幕がおりました。
いや、悲しい話ではありません、
私の自慢話です。
ちょっと長くは書いてしまいましたが、もしよかったら私の自慢話を聞いてください。
そりゃー亡くなってしまい、悲しくて仕方がありません。
でも、100歳という年齢。寝たきりの状態。
もう一世紀生きてきた中で、プライドを高くもっていた祖母にとって、この状態は本人にとってつらかったに違いがありません。
人に迷惑をかけることを本当に嫌った人です。
私たち家族も、「頑張ってほしい」という気持ちと「もう十分頑張ったからもう頑張らなくていいよ」という気持ちがぐちゃぐちゃと合わさっていて、いろんな葛藤があったこの3か月です。
9月の初めから嚥下障害が出始めました。
そして、そこに久々の狭心症の発作
その日から、祖母は食事がまともに取れなくなりました。
ウイダーインなどのゼリー栄養飲料とジュースとOS1
あと、レトルトのおかゆをさらにトロトロに
この3か月これだけです。
それも大した量は接種できていません。
点滴は血管がもろくなっているので無理。
ここから、家族での本当に意味での介護が始まった気がします。
おむつを替え
暇さえあれば水分を入れる
一生懸命声をかける
していることなんて、はっきりいってこれだけです。
でも、これが大切であって、家にいる『意味』だと思ってます。
往診医の先生がこの1年お世話をしてくださいました。
先生とも相談をし、施設にいれることは簡単ではあるけれど、入るだけ入って、忙しい介護スタッフがつきっきりで世話をしてくれるわけではない。
だったら、家族に声をかけてもらって、ずっと見てもらっているほうがおばーちゃんにとって幸せだと結論をだしました。
それには、家族だけではなく、いろんな人のお世話になったのも事実です。
ケアマネージャー、訪問看護師の方、先生
いろんなアドバイスや知恵を賜りました。
11月末、とうとう水さえ受け付けなくなり、ある意味私たちは覚悟はしていました。
あとは、どうすることが一番おばーちゃんが楽であるかです。
12月6日、母からの電話でまっすぐ帰ってきてほしいとの連絡
夕方から、瞳孔の動きがおかしくなり、瞬きがまったくなくなりました。
そして、ここからはやはり100歳という年齢なんでしょう。
変化が刻を追うごとにあります。
手の色も足の色も悪い。
もう酸素が体の先までいかないのです。
要するに、脳にもいってないでしょう。
なので、いろんな反応がなくなりました。
手をずっと握っていると、私の体温が移り、色もよくなります。
それから3時間くらい握っていたかなぁ (父にはあとのこともあるので寝てもらいました)
母と2人で見ていたら、手をぎゅぎゅって急に握りかえし、『あーあー、あーあー』と何かを言ったんです。
でも、私も母もそれがなんと言ったのか聞き取ることができませんでした。(涙)
そこからはもうスポンジで水を口に当ててもなんの反応もなくなり、ただただ口を開けて呼吸を繰り返すばかり。
でも、私この症状知っているんです。
なにかしゃべるように口を開けて呼吸するときは『最後』です。
あとは、1分間の呼吸の回数をひたすらカウントしてました。
そして、あ!っと思ったのが、喉の呼吸の動きを口の動きが合わなくなってきたので、急いで父を叩き起こし、そうですねー そこから1分の呼吸の回数が20⇒10⇒5⇒????? と静かに止まっていったんです。
ありがとうございました。
これが、私のおばーちゃんへの気持ちです。
祖母の最後は理想通りの最後だと思います。
最後まで、家で看ることができました。
家族全員で見送れました。
なんていうか、満足してます。
これって、すごいことだと思いませんか?
まったく苦しむことがなく、静かに穏やかにフェードアウトした祖母
穏やかでした。
私たちが望んだ最後であって、祖母自身も臨んだ最後だったと思います。
きっと、おじーちゃんが迎えに来てくれたんですね!
実は、これはスペシャルハッピーエンドの話だと思ってください。
私、ずーーーーーーっとばーちゃんはじーちゃんを恨んでいたんだと思っていたんです。
じいちゃんは、軍人でありましたが、そのあと土建会社をやっていたり、ねっからのお人よしで、人に騙されてお金がなくなったり、会社が倒産しても、全財産を従業員に渡しちゃったりと、ばーちゃんやうちの父たちは、えらい苦労をさせられたそうです。
それでも、ばーちゃんもひたすら働き、父達を大学までだしています。
昔のもろもろの話は難しいのですが、なんかいろいろ愚痴られた記憶はあります。
しょっちゅう、じーちゃんを怒っていたような思い出ばかり(笑)
でもね
9月で寝たきりになって、時々おかしなことをいう時があったのですが、そのあまりはっきりしない言葉のなかで、何度も『おじーさん、おじーさん』っていうんです。
えーーーー?と思い、おじーちゃんの写真を指差して一生懸命いうばーちゃんに『会いたいの?』と聞いたら『会いたい会いたい』って言うんですよ!
びっくりしました。
それが、そのあとも何回かあったんですねー
おばーちゃん、実はおじーちゃんのこと大好きだったんだなーって
おじーちゃんが迎えに来てくれるのをまっているんだなーって
あたし、すっかり勘違いしてました。
すごく暖かい気持ちになった私です。
そして、私は昔から尊敬する人物と聞かれると『祖母』と答えます。
じーちゃんは、まるこちゃんの友三じーさんのようなかわいいじーちゃんでしたが、ばーちゃんは私にとって人生の先生です。
私が幼稚園の頃に、新潟で1人で保健婦をしていた祖母が定年後埼玉にきて同居することになりました。
それまでの祖母は、鹿児島で生まれ、看護学校に通って看護師になり、じーちゃんと結婚後満州に行って、そこで助産婦の資格をとる。そして40歳で保健婦の資格をとり、公務員をして働いたと聞いてます。
教え子もできたりと、当時のばーちゃんに世話になった人たちは、今でも『田中婦長さん!』と連絡をくれるくらい、町の有名人だったそうです。(新潟県能生町)
そういえば、うちの玲と圭のへその緒を結んだのはばーちゃんでした!
そりゃー素早かったです。その時90歳!!!
同居をするようになって、私はほぼ祖母に育てられたといっても過言ではないでしょう。
ばーちゃんは積極的に私になんでもやらせてくれました。
たとえば、刃物も私は早くから持ってます。
カッターで鉛筆を削るのも幼稚園のころからお茶の子さいさいです。
字も早くから書いてました。
もともとなんでもやりたがりの性格でしたが、それを否定することなく、すぐに実行させてくれたのが祖母です。
一人っ子の私ですから、外で遊ぶ時は、友達と男の子遊び
家での遊びはもっぱらばーちゃんとだったんです。
野球もよく一緒にみにいったな
ばーちゃんはジャイアンツフアンだったから(笑)
ばーちゃんが看護師で、しかもかなりの優秀な看護師
おば2人も看護師
自然に、じーちゃんたちも私が看護師になってくれたら・・・と思っていたのも感じてました。
なので、自分の気持ちがついていかない状態で看護学校を受験した私がいます。
しかし、実は私、1つ受かった学校をおちたと嘘をついて、入学を蹴ったんです。
嘘はけして良くなかったと反省しています。
この嘘で、私は1年分の予備校のお金を親に負担させることになってしまいました。
予備校に通っていても、自分の将来に看護師がどうしても結びつかない私に、おばーちゃんがわかってくれていたんですね。
逆に、医療系の予備校に通っていく中で、今の臨床検査技師のほうにどんどん興味がわいていったんです。
もともと化学が好きだったからね
その進路を変えることへの葛藤に助けてくれたのはばーちゃんでしたね。
そして、その予備校のお金を実はおばーちゃんが出していたと聞き、私の就職したあと返しました。
知らないことになっていたので、母に返し、ばーちゃんにわたるようにしてもらったんですがね。
だって、私からなんて、絶対に受け取らないもん ばーちゃんは!
今、こうやって自分の満足のいく道に進んでいるのは、ばーちゃんのおかげなんです。 私がやりたいことを絶対に否定せず、良い方向へ導いてくれる人です。
厳しいところもありましたよ! あえていえば、かなり厳しいかも(笑)
でも、愛情があったんですよねー
厳しかったけど、怖かった記憶はまったくないですもん。
ばーちゃん自身もいつも前向きにいろいろなことに取り組んでました。
その1つがパッチワーク
野原チャックさんの系列のお弟子さんの1人となり
自分でも教え子をもちました。
今となっては遺品となってしまいますが、斎場に一部飾らせてもらいました。
ほーーーらすごいでしょ!
明日が告別式なので、お別れです。
最後までちゃんとお見送りしなくちゃね!
長いこと書いてすみません。
悲しいお話としてではなく、私の自慢のおばーちゃんの話です。
大声で、うちのおばーちゃんすごいでしょーーーーーーと叫びたい気分です。
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posted at 2013/12/09 22:26:47 【修正】
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Comments
カールのママさん
ありがとうございます。
あのドタバタ出産がいまとなっては懐かしいですね。
もたもたやってた私たちが、見てられなくなった祖母の手際の良さにびっくりしました。
祖母の背中をみて育ってこれたことを、感謝して過ごしていこうと思います。
ありがとうございます。
あのドタバタ出産がいまとなっては懐かしいですね。
もたもたやってた私たちが、見てられなくなった祖母の手際の良さにびっくりしました。
祖母の背中をみて育ってこれたことを、感謝して過ごしていこうと思います。
かずちん
at 2013/12/12 21:56:15
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子犬が産まれる度に手際良く臍の緒を結んだかずちんのおばあさまの事を思い出していました。何度経験しても一人で臍の緒を結ぶのは苦労します
私も母や父の介護を少し経験しましたが家庭でみとるのは本当に大変な苦労です。家族にみとられて逝ったおばあさまは幸せでしたね
心よりご冥福をお祈り致します